ミカ2:12−13/黙示録19:11−16/マタイ25:31−46/詩編50:1−6
「打ち破る者が、彼らに先立って上ると/他の者も打ち破って、門を通り、外に出る。彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる。」(ミカ2:13)
預言者ミカが活動したのはその表題にあるとおり「ユダの王ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」(1:1)です。「それは、彼がサマリアとエルサレムについて幻に見たものである。」(同)。同じ6−7節には「わたしはサマリアを野原の瓦礫の山とし/ぶどうを植える所とする。その石垣を谷へ投げ落とし/その土台をむき出しにする。サマリアの彫像はすべて砕かれ/淫行の報酬はすべて火で焼かれる。わたしはその偶像をすべて粉砕する。」とあります。おそらくこれはミカが北王国滅亡の時代を生きていた証拠でしょう。研究者はイザヤやホセアと同じ時代の預言者で、主にヒゼキヤ王の時代に活動の中心があったと見ています。
この時代はアッシリアがまだ強国だった時代です。アハズ王の時代から南ユダはアッシリアに貢ぎ物を送ることで隷属していたのですが、ヒゼキヤの時代には反アッシリア同盟の中核を担うようになります。これは失敗してしまい、アッシリアが南ユダに侵攻するする事態になります。膨大な賠償金を支払って辛うじてユダは生き延びる。そういう激動の時代でした。
しかも「モレシェトの人ミカ」(1)とあることも注目です。イザヤは主にエルサレムにいて預言活動をしましたが、ミカはモレシェト、丘陵の広がる農耕地で、オリーブの栽培や牧羊をしていた土地の出身だったようです。お読みいただいた2章には羊と羊飼い、その囲いが預言に用いられています。ミカが牧羊をしていたかどうかは判りませんが、少なくともミカの生活の座は羊を飼う者たちや農耕をする者たちに囲まれていたのだと思います。ユダヤの宿敵であるペリシテ人の町ガドにも近い場所だそうです。さらに進めばエジプトの領地になります。南ユダ王国の南西部。王国領土の縁、マージンだったということでしょう。そのため国際政治の先行きを巡って最も動揺させられる地域、社会環境だったとも言えるかも知れません。結果的にモレシェトはアッシリアによってペリシテ領土に組み入れられ、故郷を追われたミカはエルサレムに逃れて預言活動を続けたのです。だからでしょうか、南ユダの権力者、エルサレムの上流階級に向けられたミカの預言は痛烈です。
その厳しい言葉は、ユダ王国の滅亡も語ります。ところが国が滅んだその先をミカは言っているのです。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。」(2:12)。少なくとも彼は、滅亡を終わりだとは考えていないということがわかります。そして実際、北イスラエルが滅亡したときも、南ユダ王国が滅亡したあとも、少なからぬ人が殺され、街は焼き尽くされ、神殿は荒らされ、人々は連れ去られましたが、それが終わりにはなりませんでした。さらに言えば、北イスラエルを滅ぼし、南ユダを圧迫したアッシリアも、長くは続きませんでした。アッシリアを滅ぼしたのは新バビロニアでした。この新バビロニアによって南ユダ王国も滅びますが、新バビロニアもまた千年王国にはなり得ませんでした。それを滅ぼしたのはペルシャでした。今に至るまで、様々な国が世界の覇権を争い、次々と盟主になりましたが、どれも永遠に続く国ではありません。21世紀の今、わたしたちが知りえる世界情勢も、それが千年先も同じであるかどうか判りません。ということは、「滅び」ということを考え直せと迫られていると言って良いのかも知れません。
預言者は皆、国が滅ぶというニュースを神から託されます。それはつまり「滅び」もまた神さまの御手の中にあるということでしょう。神がわたしたちの歴史に介入されるということです。わたしたちは神がこのわたしの生きている間に歴史に介入されることなどないと見積もっています。しかし、神の言葉を託された預言者たちは挙って「神が歴史に介入される」「神が国を滅ぼす」と語っている。しかもそれが単なる過去の出来事、歴史の一行ではなく、今でも、現代でも神はいつでも歴史に介入されるということを意味しています。そして、それを語る口が「滅びが終わりではない」と語るのです。
たとえ国が滅んだとしても、神はその民を捨て置かない。「ヤコブよ、わたしはお前たちすべてを集め/イスラエルの残りの者を呼び寄せる。」。「彼らの王が彼らに先立って進み/主がその先頭に立たれる。」(2:13)。神が集め、神がその集められた民の先頭に立たれる。預言者はそう宣言するのです。
今日はキリスト教の暦で一年の最後の主日です。古の人たちはこれを単なる1周目の終わりにはしませんでした。そうではなくこの日を「終末主日」と呼んだのです。つまり神が歴史に介入される日のことを思う主日でしょう。主こそがわたしたちの先頭に立たれるのだということを、本気で信じられるかどうか問われる主日なのかも知れません。
祈ります。
すべての者を愛し、導いてくださる神さま。神さまこそ歴史を導くのだと信じるわたしたちのホンキ度を求められる主の日。例え避けがたい苦難の日ではあってもわたしたちの主である神さまがわたしたちを集め、その先頭に立って下さることを思い起こす日としてください。そのしるしとしてあなたは何の力もない、弱く儚い赤ん坊をわたしたちに与えてくださいました。その意味を考え教会暦の新しい一年へと歩みを進めることが出来ますように。復活の主イエス・キリストの御名によって、まことの神さまにこの祈りを捧げます。アーメン。